第二章
ジェイムズ経験論の中心思想
第三節 純粋経験の世界
前述の如く、ジェイムズにあっては経験するものと経験されるもの、いいかえれば意識と内容への経験の二分化は引き算によるのではなく、与えられた具体的な一片の経験に他の経験が加わった際に、即ち足し算をしたときに認められている。これは何を意味するのであろうか。
まず二分化作用が引き算による方法でなされる場合は、経験がはじめから経験するものと経験されるものという内的二重性をもっているという命題が前提されなければならないことになる。ジェイムズはその点を批判する。なぜならばそこでは経験するものと経験されるものは実体的に考えられていて、経験とはその両者が何の内的結合的根拠もなく、寄木細工の如くあわさっているものとしてしか理解されていないからである。従ってここでいう引き算の方法ははじめから二つの要素からなりたっている経験の存在形態を心的作用によってあらためて確かめるといった演算のようなものであり、あたかも、経験を「それから世界の絵が描かれる絵具」(1)であるかのようになぞらえている。
周知の如く絵具は油ないしは膠水といった溶媒とその中に色素としてある内容の二重構造をもっている。われわれが科学的方法を用いて、色素を沈殿させれば純粋な溶媒を得、油や膠水を流し去れば純粋な色素を得る如く、引き算の方法は経験を心的な作用によって(絵具のように全く分解できないにしても)経験するものと経験されるものの二つをもっているものとしてしまうのである。
それに対しジェイムズは同じ絵具をそのようには見ない。絵具は絵具屋の壺の中では他の絵具とともに、全体としてはそれだけの売り物として役にたつ。キャンパスにぬられ、そのまわりの他の絵具とともにあれば、逆に絵の中の一つの顔形を表し、一つの心的様態をあらわしている。いいかえれば絵具は事物であり、また別のところでは精神のある具体的なあらわれでもあるのである。
このように絵具が油、膠水及び色素であるといういい方とその絵具が売り物になり又精神的表現にもなっているといういい方の二つがあるように、経験が要素的に意識と内容であるといわれるのなら、その同じ経験が働きとして客体にも又主体にもなりうるというのである。われわれが意識と内容の問題をとりあげる際に、経験は意識と内容からなりたっているという場合と、経験は意識にも内容にもなりうるという場合とでは、その経験に対する見方が全く異質であることに気づかなければならない。ジェイムズの説明が奇妙にみえるのは、往々にして前者の立場の目を通して判断されている場合が多いからであって、もしわれわれがジェイムズの根本的経験論に親近感をもとうとするならば、かかる姿勢を一時放棄したところからはじめなければならないであろう。
物事を公平に見る人ならばただちに根本的経験論が存在の機能的部分を重視している点に気づくであろう。実は存在の機能的部分を重視する考え方こそ最も経験的事実に忠実であり、且つそれになんらの偏見もいだかずに、直接的に事実を事実としてうけとる態度に通じるのである。なぜならばわれわれの常識的感覚からしても、存在がわれわれの前にどのように作用し且つ働いているかはそのままわれわれの感覚的器官を通して判明されるのに対し、存在がなんであるかはなんらかの形でわれわれに判断という心的作用を強制しているからである。ジェイムズはこの考えをさらに徹底し、そして現存するあらゆるものの瞬間の分野は純粋経験の世界であるという考えを導出する。
ジェイムズの純粋経験についての見解は経験の特殊な姿を想定しているのではない。根本的経験論が経験論的立場を変えずにより徹底しているといわれるのと同じように、純粋経験も又経験の一般的姿をいいなおしたものにすぎない。ジェイムズにとれば純粋経験がいわゆる経験なのであって、逆に経験とは常に純粋経験としてあるところのものでなければならないのである。にもかかわらずジェイムズがわざわざ「純粋」なる形容詞を冠したのは、丁度普通の経験が真の経験論でないという意味で「根本的」なる形容詞を冠して真の経験論をもたらそうと意図したのと同じ意図からである。
それでは純粋経験とは具体的にはどのようなものであろうか。まずわれわれはこれまでに散在して述べられたジェイムズの考えを整理したとき、次のような諸命題をえることができる。第一に純粋経験論は経験が二元的構造をもっていることを否定している。第二に純粋経験は時間的流れの上から見られたときはわれわれが最初にであう一つの事実である。第三に純粋経験の原理は経験に徹するという方法論的公準をもっている。その経験は常に具体的である。第四に、以上の帰結として純粋経験はわれわれの生の直接的流れそのものである。最後に純粋経験の原理は根本的経験論の必要条件である。かくて根本的経験論はこの純粋経験の原理が機能的役割を重視するプラグマティックな方法(後に詳細に論じられる)という十分条件を得て、まがりなりにも哲学的体系をもつにいたるのである。
以上の諸命題から、われわれはジェイムズが純粋経験についてはいかのテーゼを設けたとしても容易に理解できるだろう。「もしわれわれが世界において唯一の原始的素材、あらゆるものがそこから構成されるところの素材があるという仮定でもってはじめ、そしてわれわれがその素材を『純粋経験』とよぶならば、その時知ることknowingは純粋経験の諸部分が介入する相互への一つの特殊な関係として容易に説明されうる。その関係それ自身は純粋経験の一部分である。その『項』の一つは知識の主体ないしは担い手、即ち知者になり、他は被知の対象になる。」(2)
ここでも又もや関係の問題がとりあげられている。しかしここでは関係は純粋経験の否定しがたき部分である。さてジェイムズのこのテーゼについてわれわれはもう少し検討してみよう。ジェイムズはこれについて一つの部屋の例をあげて説明する。われわれは知覚の哲学が一つの存在を外的空間とわれわれの精神の両方に認めるパラドックスに呷吟していたのを知ったが、純粋経験をとりあげる際にもそれの知覚の問題となると、この部屋の例において、一つの同じ部屋がいかにして二つの場所に存在しうるのかという謎にぶちあたらねばならない。ジェイムズはこの問題を単純化し、それは一つの同じ点がどうして二つの線上にありうるか、と同じであると考える。即ちそれは二つの線の交わるところに点が求められればよいのである。
これを経験的事実にあてはめればどうなるのであろうか。ジェイムズは次のようにのべる。「もし部屋の『純粋経験』が異なったグループの連合体でもってそれぞれに純粋経験を結びつける二つの過程の交差の場所であるならば、それはどちらのグループにも属するものとして二度にわたって教えられ、そしていつも数的にはたった一つのものであるけれども漠然と二つの場所に存在するものとして話されうるであろう。」(3)ジェイムズにとれば経験とは「そこから全く異なった線に沿ってかなたへと追求されうる違った過程の一つのメンバー」(4)なのである。「同一の事物は他の経験への多くの関係をもっているので、それは全く異なる連合体系においてもうけとられ、又反対せる文脈contextにも属しているとみなされる。これらの文脈の一つにおいてはそれは『意識野』であり、他のそれにおいては『われわれが座っている部屋』である。事物は全体として
(傍点論者)その両方の文脈に入りこむのであって、決して事物の諸部分ないしは諸部面の一つによって意識にひきつけられ、他のそれによって外的実在にひきつけられるといわれる口実を与えてはいない」(5)のである。
では部屋の経験がこのような方法で同時に入るところの二つの過程とは何か。ジェイムズによれば一つはわれわれの個人的伝記であり、他は部屋が部分であるところの家の歴史である。即ち「それはわれわれの側においては現在において終わる一連の感覚、情緒、決心、運動、分類、期待等の最後の項であり、未来に広がる同様の一系列の『内的』作用の最初の項である。他方全く同じそれは多くの先行する物理的作用、大工仕事、壁紙張り、家具配置、暖房等の終点terminusであり、物理的部屋の運命にあう時に関係するであろう多くの未来の作用の起点terminus
a quoである。」(6)
これらの二つの交点を考える時、われわれはそれがまさしくわれわれの経験そのものをさしており、従ってジェイムズの考えている純粋経験の世界を表示していることに気づくであろう。もっとも、心的作用と物理的作用は一致しないと考えられる場合がある。たとえば部屋を破壊するには一方ではある時間を要し、他方では想像の一瞬間しか要しない。部屋に住むためには外的対象としては一定の金がかかるが、内的内容としてはいつまでもロハである。しかしそこからわれわれはただちに心的作用と物理的作用はあいいれないものであり、他の存在を否定しあうとは考えないであろう。そう考えるのは主知主義的見地にたつ者だけである。経験的立場にたつ人ならば、一見あいいれない二つの状況がともに一つの経験に由来している点を察知する。即ちこれら二つの状況は異なった文脈において見いだされているのであってそれぞれはそれなりに実在的な状況であるのだと判断する。彼は決して二つの状況を同時にみるという傍観者にはなりえない。なぜならば厳密にいうならば同時的に想定せられた二つの状況とはすでに経験から離れたものであるからである。いいかえれば存在としてみられた場合対象の考えと考えられた対象は決して同じではなく、従って彼は対象の考えを同時的に二つもつといった超経験的な器用さをもつことはできないのである。そのために仮令彼が二つの状況をみるといっても、それはあくまでも時間的経過の中でしかみないであろうし、それ故に彼はまがうことなく経験の流れの中に投じることができる、といわれうるのである。
それではこの二つの状況はそれ自身において真であるのか、それとも偽であるのか。かかる判断を要求されたとき、ジェイムズであるならば、それらは真でもあり、偽でもあると答え、又それらはどちらも実在的であり、又非実在的でもあるといいなおすであろう。再び部屋の側にかえれば、ジェイムズによれば、もしわれわれが部屋を心的方向においてとらえ、それを個人的伝記の出来ごとのみと一緒にうけとった場合にはそれに応じたところの経験される実在的事物としての部屋を考えるのであり、従ってそれが真なのであり、又部屋を物理的方向においてとらえ、外的世界の連合体へと関係づけた場合には、これ又それに応じた実在性をえ、真なる判断をもつのである。だが対象の考えと考えられた対象はわれわれに現象するままにみえているならば、それらは同一であり、ただ違った役を演じていると考えられてもよい。そこにおいてはわれわれが感じとる主観性と客観性のかげりはそれらの機能的属性に基づいているのである。
ジェイムズのこの考えはかなり強引である。なぜならばジェイムズがとりあげる二つの過程そのものの導出方法がすでに精神による働きに基づいているともいえなくはないからである。ジェイムズのよく使用する文脈contextについても、又機能性の重視についても、ただそれだけのことから、われわれはそう簡単にそれらが経験的世界における直接性から導かれているとは信じないであろう。その意味でジェイムズは純粋経験に対してその存在の根拠をあきらかにし、且つ存在の妥当性を論証すればするほど、彼の敵なる主知主義の術中におちいる危険性を増大させているといわれねばならない。
ただわれわれはジェイムズの純粋経験の見解があらゆる意味におけるわれわれの経験について単なる一つの見方であり、うけとり方であると考えるならば、一見世間離れしているようにみえるこの理論が事実においては経験についての他の考えとそれほど異なっていないという点に思いあたるかもしれない。それ故にジェイムズの純粋経験についての見解を考察しようとするわれわれの観照的見地からすれば、純粋経験は次の三つのあまりにも独善的な、従ってその独善性の根拠が超経験性にあるところの以下の考えに釘をさすという消極的働きをしているといえるであろう。
その第一は「物質や考えについてわれわれは知っているが、中立的neutralで単純な『純粋経験』は何から成り立っているか説明できないのではないか」(7)という考えであり、第二は「事物としての経験と考えとしての経験が根底的に異なっているのはなぜか。ここに事物と考えの徹底的な二元論があるのではないか」(8)という考えであり、第三は「われわれは自分たちが意識的であるということを知っている」(9)という考えである。
これら三つの反対意見に対する解答はすでにこれまでの論述においてなされている。即ち第一の解答とは経験とは単なる感覚的性質の集合名にすぎないのであって、すべてのものがそれからつくられるという普遍的要素はないということである。いいかえれば経験がわれわれにみえるところのものであるということは、それがなにからつくられているかについて決定的解答をする普遍的要素はないということなのである。
第二の解答は考えと事物の異質性が絶対的でないという考え方に与えられている。なるほどそれがなんらかの実体であると考えられる場合は、われわれはその異質性の壁をのりこえられないかもしれない。しかしそれらがわれわれにとっていかに機能しているかの見地にたてば、われわれはそれらが共通の範疇からきているようにみえるいくつかの諸現象を察知するのである。たとえばそれらは時間に対する関係においては同じにみえる。又それらは部分として作用しているし、複雑ないしは単純な様相をしめす。たとえばここに火と水がある。われわれは水は火を消すというがそれはそのように作用している場合において正しいのであって、作用しない水は少しも火を消していない。してみれば心的事実の中で水で火を消している様相は明確に作用しているのであって、その点に関し、同じ根拠に基づいているといわれうるのである。逆に、物理的な火は熱いかもしれないが、心的状態における火の存在においても、物理的経験の際に生じる行為と同じものがもたらされないとはいいえないのである。
第三の解答は超経験的自我の想定の否定にある。われわれが常になんらかの意識性を有しているということは意識という心的実体をもっていることの証左ではなく、せいぜい、声門と鼻孔との間から外へ流れでる息の作用性のあらわれにすぎないのである。そのような意識の実体は想定的fictitiousなものである。とはいえ、具体的な考えは常に流れとして現象している。それはただ事物がつくられているのと同じ素材からつくられており、いいかえればわれわれの経験において認められるにすぎないのである。
さてわれわれは純粋経験の世界が意味する様々な事例について考察してきたが、ここでも他の哲学と同様に重要な役割を果たす一つの言葉に気づいたはずである。それはいうまでもなく「意識」の問題である。ジェイムズが主客未分の状態にあるところの、そして直接的にわれわれに与えられたところの経験を意味しているといわれるのも、その事実に対するわれわれの意識の特異性がもたらしたためであるのは明白である。純粋経験の論理が徹底されれば、そこにはわれわれの意識が無視されているかのようになるのではないかと考えるのは間違っている。
ジェイムズにおいても意識はわれわれの認識論的必然をして認められているのである。それはわれわれが意識の存在の直接的根拠をもっているかどうかとは関係がない。仮令その根拠をもっていなかったとしても意識は一つの役割をわれわれの認識において果たしている。なぜならばそれはわれわれの経験における事物が存在するばかりではなく報告され、知られるという事実を説明しているからである。又論理的に考えてもそれはそれらの事実を説明するために必要であると想定されるものである。従って、意識が「その特殊性がその中に光にてらされ、内容の察知が生じる経験における『内容』の論理的な相関物にすぎない」(10)とも考えられるのである。
しかしながらジェイムズの意識についての考えは、すでにあきらかにされている如く、「意識という言葉は実体をあらわすということを否定するが、一つの機能をあらわすということを最も強調的に主張する」(11)点にあることは忘れられてはならないであろう。
そこで心的実体ではないところの意識とは具体的に何を意味し、人間の活動においてどのように作用しているかを吟味することは純粋経験や、根本的経験論の理論的解明に決定的な役割を果たすと考えられてくるだろう。そのためにはまずわれわれはジェイムズにおいては意識が流れているという事実を伝える以外のなにものも意味しない点を留意すべきである。純粋経験とは意識の流れが他からのなんらの制約をうけることなく認められる場であり、そこにおいては意識はその対象についての考えと不可分の関係において存在している。従って意識の流れとはわれわれの直接的経験の場においては、あるいはわれわれの精神が実在と一体となっている認識的世界においては、常に考えの流れとして現象している。
われわれはすでにそのような世界が「我考えるI think」によってではなく「考えが流れているit thinks」によってみたされているのを知っている。この事実の強調こそ心的実体を否定するなによりの表現であり、ひいては合理論者の主張する先験的自我の存在の理論の無意味性を伝えている。ジェイムズにとって自我とは常に経験的自我であり、しかもそれは決して一つの実体でもない。それは考えあるいは意識状態それ自身であり、それらの流続的作用の中に含みこまれているのである。
この考えは従来の自我観とはまっこうから対立している。ジェイムズにとれば従来の自我は結局のところ経験とは無関係の純粋自我である。その代表的な考えがプラトンやアリストテレス等による霊魂説、ヒュームヤミル等による観念連合者説、カントによる先験論説であり、従ってそれらはこれまでのほとんどの自我観を代表している。これらはそれぞれの方法において内的統一性を求めるあまり、一つの統一的実体を想定せざるをえなくなったものであるが、それがいつのまにか、われわれにとっての認識の主体にとってかわるようになってしまったため、誰一人としてその存在の様態について疑いをはさまなかったという不運によって、人間存在の生的躍動を決定的につかみえなかったのである。
しかしながら他方では認識が問題にされる際、認識主体がどのようになっているかを知りたいというわれわれの衝動はさけられない。こういったわれわれの発想に対してジェイムズはその立場にたって次のように説明する。「もし変化的考えが直接に検証しうる存在物であるならば、その考えはそれ自身思考者である。」(12)いいかえれば考えがわれわれの考えである限り、それは主知主義者風に思考者の役割をはたすといいえるのである。
それではit thinksの世界がなりたつ状況のもとにおいては、換言すれば純粋経験の世界においては、われわれの意識状態即ち考えとはどのような性格をもっているかをみよう。ジェイムズはそれを五つにまとめている。
それは(一)あらゆる考えは個人的意識の部分である傾向にあるという点、
(二)各々の個人的意識の内部において考えはいつも変化していると いう点、
(三)同様に各々の個人的意識の内部において考えは可感的に連続 的であるという点、
(四)考えはいつもそれ自身から独立している対象をとりあつかってい るようにみえるという点、
(五)考えは対象のある部分に関心をもち、他の部分を排し、そしてた えず歓迎するか、ないしは拒絶する、即ち考えは対象の中から選 択しているという点、である。
この五つの命題は純粋経験の説明であるというよりもジェイムズの思想の認識論的表明に近い広がりをもっている。とはいえここでも重視されねばならないのは考えの連続的性格であろう。
われわれは以前に純粋経験の否定しがたき部分として関係とりわけ結合的関係をとりあげた。その説明の仕方はどちらかといえば概念主義的な性格を帯びており、それ故にジェイムズは関係の定義について「関係とは勿論経験された関係であり、それは関係づけられた項目がその部分であるところの同じ本来的混乱的多様の非知覚的経験の成分である」(13)と苦しい弁明をしなければならなかったけれども、しかしながらわれわれは関係の意味しているものの具体的様相を理解すれば、考えの連続性、あるいはもっと広く経験の連続性と彼のいう関係の概念とが必ずしも矛盾しないことをみいだすであろう。
まずジェイムズにおいて連続性という言葉は次のように定義される。その一つは時間的なすき間がある場合でさえ、その後の意識はあたかも同一の自己のもう一つの部分としてその前の意識と同じに属しているかのように感じることであり、その二は、意識の質において一つの時間から他の時間への変化は決して絶対的に急撃的ではない、ということである。(14)
第二は連続性をゆるやかな結合状態においてみようとする姿勢である。意識の変化はすき間なき全体性の中の必然的な移動を前提にしているのでも、又、絶対的なすき間をとびこえる飛躍性を強調しているのでもない。それはただ経験的世界における意識がとだえなく、亀裂なく、隔壁ないという消極的表現以上のものではないということを伝えるだけである。これは何を意味しているのであろうか。ここでわれわれはジェイムズの経験の連続性、考えの流動性についての説明の論理的部分に遭遇するのである。
ジェイムズにおいては考えが流続的にあるというのは経験的世界においては一つの事実であると同時に彼の知的観点からは一つのビジョンであり思考の際の大前提であった。しかしながら他方ではわれわれがいわゆる「一つの考え」をもち、さらにある有限的な時間量の後には「他の考え」をもっているという誰にでもあきらかな別の事実にも直面している。ジェイムズは経験論者であったから、それらの考えが経験的対象、具体的には感覚的事実であるという点までは容易に導きえたが、感覚的事実の故をもってそれらが質的に同一のものであるとはいいえなかった。又人格的同一性を感知する以上はそれらが絶対的に異質のものであるとも断言できなかった。それ故、仮に一つの考えから他の考えへの移行というように、それらを変化としてみる視点にたっては見たものの、両者からくるディレンマを完全に解消できたわけでもなかった。
ただジェイムズにおいて確信的にいえたのはそれらが絶対的単一性のもとにも又絶対的多元性のもとにもくみいれられることができないという点であった。なぜならばそのような行為はあきらかに経験的事象の中からはみでた抽象的なそれであって、そのことの故をもって経験的事実が少しも説明されていないからである。
そこでもちだされたのが、「ゆるやかな結合」の観念である。ゆるやかな結合とは結合の媒介が感覚的事実であるの意である。ジェイムズはそれによって絶対的単一性でも絶対的多元性でもない意識状態を説明しようとした。二つの考えはそれ自身感覚的事実であるところの媒介を通じて一つの流続的事実として受け取られるということでジェイムズのビジョンの論理的根拠をえ、同時に二つの考えが異なっているようにみえるという事実をも全く否定しないでディレンマを解消しようとしたのである。これがジェイムズにおいていつもくりかえされるところの「自然の中に対象間の関係が確実にあるように、これらの関係が知られる感じが確実にあり、あるいはそれ以上に確実にある」(15)という命題となるのである。
それでは考えの流れが一つの経験的事実であるにもかかわらず、なぜにジェイムズにおいてはそれを同時に一つのビジョンとせねばならなかったのか。そしてなぜに関係というあるいは結合というつかみどころのない言葉をわざわざつかわなければならなかったのか。
それはやはりわれわれの主知主義的傾向のせいなのである。この傾向はわれわれが精神という存在を認める限り、さけられない泥沼へとおいやっている。従ってジェイムズ自身考えの流れを分析的立場にたって考察するというテクニックをして、逆に考えの流続的性格を強調しなければならなかった。ジェイムズによれば考えの流れには「実質的部分substansive part」と「推移的部分transitive part」の二つが存在すると考えられている。(一)
実質的部分とはわれわれの考えが停止している部分であり、そこではなんらかの感覚的心像が明確にされ、われわれの精神も又そこに一つの実体的存在をみるところのものである。推移的部分はわれわれの精神にとって大部分を占めると感じられる実質的部分と他のそれとの間にあるところの静的ないしはダイナミックな関係の考えでもってみたされる部分である。ジェイムズにとれば実質的部分と推移的部分は考えの流れにとって同等の構成の部分であり、ただ便宜的に、いわばわれわれの識別的作用の手段として区分されているにすぎないのであるが、実際において内省的なる精神が推移的部分がどのようなものであるかをみきわめるのが困難であるために、現実には実質部分のみが強調され、推移的部分が無視されてしまう場合が多いのである。
しかしそれは誤っているとジェイムズはいう。第一に、考えの流れがあるという本質的な前提がすでに無視されていることになり、第二に逆に実質的部分の接木によって考えの流れが説明されるといったところで、少しも事実の正しい叙述にならないからである。にもかかわらず実質的部分を強調するものはしまいにはその実質的部分こそは考えの本質であると考えるに至る。そのために推移的部分を内省的にみようという態度は「その運動を把握するために回転する独楽の先端をつかまえたり……暗闇がどのようにみえるかをみるためにすばやくガスに点火する」(16)ようなものであるとする。
われわれはすでにこのような考え方が主知主義者によってとられている例を前にみた。実質的部分と同等の感覚的事実としての推移的部分を無視する仕方は結果として二つの考え方をもたらしている。一つはヒューム的考え方である。ヒュームの場合、印象ないしは観念という名のもとに実質的部分にさえも完全な明晰性を要求している。その結果、ヒュームが関係(なかんずく因果関係)を実在の領域からのみならず、考えの領域からもおいだし、文字通りそれをわれわれの外的及び内的の両方の世界において無意味な存在にしてしまったのである。
他の一つはプラトン的考えである。それは推移的部分を感じられる関係としてとらえるかわりに「超感覚的な理性の直接的作用によって」(17)生じる抽象的、非経験的実体の存在を導きだしている。この存在が求められるのはヒュームと違ってなんらかの関係の実在を無視しえず、感覚的事実以外のなにかに期待しようとしたからにほかならない。
以上の如くみるならばジェイムズの考えないしは意識に対する分析とそれの評価が彼の思想と一致するためには考えの推移的部分の強調がなされてくるのは当然であろう。考えの実質的部分が勢力的に主張されてきた従来の考え方からすればその推移的部分を実質的部分よりも支持する考えでもって、はじめてジェイムズの意図する両者の経験における同等性が維持されるのである。
だがジェイムズにおいてはその推移的部分の強調の仕方が問題である。ジェイムズにとって推移的部分とは主知主義によってできるだけ数を減らされようとした関係の数を無限に拡大したものとしてある。しかもそれはわれわれの可感的対象として存在しなければならない。それ故に関係はまさに関係の感じfeeling of relationとしてあるといわれるのである。たとえば言葉の使用においてわれわれは接続詞や前置詞、あるいはほとんどの副詞、文構造形、会話における声の抑揚等において、具体的にそれらの前後にある主張されるべき考えの間のつながりに痛切に思いあたる節にであう。あきらかにそれは両者の関係をなめらかにしているのであり、それらの言葉の使用によって、文脈の一貫性を感じとっているのである。
ジェイムズはそのことを端的に次のようにいう。「われわれは青の感じ、冷たさの感じをいうのと全く同様に容易に、そしての感じ、もしもの感じ、しかしの感じ、によっての感じをいうべきである。」(18)これはまさにわれわれの意識状態の中にあるものであり、考えの推移的部分を形成している。
考えの推移的部分の強調は客観的には無数に存在する感じとしての関係の支持であり、主観的には考えの流続性の証左である。そして結果的にはそれはわれわれの知性に経験論における結合的関係の存在を認めさせる。このことはさらに純粋経験の世界の理解を容易にさせている。なぜならば純粋経験の世界とは直接的に経験される結合的関係の実在性をもって成立するからである。もし結合的関係が感じとして認められなかったら、経験のもつ文脈は根底からくずれさられるであろう。いいかえれば経験とはわれわれにとって全く意味をなさない抽象的対象として個々ばらばらにとりあげられ、それによってわれわれは経験を外的にしか内省できないことになるであろう。
ところでここに一つ問題が生じる。結合的関係が純粋経験のキイポイントであるとしても、単なる結合的関係の一連的な存在で、考えの流続性が説明されるといわれるのであろうか。いいかえれば、われわれの認識の段階において考えの流続性ないしは連続性という事実の存在が判明されたとしても、そのエネルギーはどこにあるのか不明にされているために、その内的自発性がみいだされない、という問題である。
これはわれわれの観照的立場を最終的に放棄させる主知主義の最後の反論である。そこには考えの流れを認めつつもその流れ自体を、より高い立場にたって静的なものにしてしまおうとする知的野心がありありとみえている。この反論のパターンは先験的自我を認めたり、絶対的精神を招いたりするのと同じである。なぜならばそれらはそれらによって規制されると称するところのものがなんらの自発性を所有していないという勝手な想定によって導出されているからである。
しからばこの反論の根拠にみられるように、考えの流れはそれ自身として、いいかえれば内部から躍動していないのであろうか。ここにわれわれはわれわれの考えとしてある意識状態の性格を最後的に決める段階にきているのである。
だがこれまでの論述において予知されている如く、ジェイムズにおいては変化する考えは単なる考えであるのではなく、われわれの直接的経験的対象として機能している限りは思考者としての役割も果たしている点に注意されねばならない。それ故ジェイムズによって説明されている結合的関係はたとえそれが感じとして存在していると認められても単純感覚とよばれる単なる要素ではなく、意識の因果的有効性の誘発するところのものである。この意識の因果的有効性とは考えがその次にくると考えられる考えへと流れていく力を意味している。
そこでは考えが意識の選択力を通じて自発的に動くエネルギーそのものであるとされており、まさに主知主義者風に思考者としていわれるべき役を果たしているのである。とはいえそれは精神の働きを意味していない。むしろ精神は「あらゆる段階において同時的可能性の劇場であり」(19)選択的作用としての意識がこれら可能性の相互の比較の中に介在していると考えられるべきである。
しかしわれわれは今やあまりにも意識の状態についての考察に焦点をむけすぎている。意識は認識の説明には必要な観念ではあるけれども、ジェイムズにおいては考えの流れの考え方を強化するものでしかなく、決してそれが招来しそうにみえる自我を不動にし、そして自我のみが事物を関係づける主体としての能力をもっているということをあきらかにするために使われているのではない。
純粋経験の世界においては意識はその内容である対象と明確に区分されてはいないのであり、意識が認識のために必要であるということは何も「我考える I think 」を成立させる要素である自我の存在を絶対的にすることではない。ジェイムズからすれば自我として考えられる意識は経験にあらわれる文脈によって認められるのであり、そして「考えが流れる it thinks 」の世界においては意識は「この」とか「ここ」とかいった定位 position をあらわしているといわれた方がより適切である。それが意識を一種の外的関係を意味しつつも存在の特別な素材ないしは方法をあらわしていないものとして解釈するジェイムズにとっては主知主義者にも反対されないで納得させる妥協的な解釈であるに違いない。なぜならば「この」とか「ここの」とかいった定位をしめす言葉は、他方ではわれわれの精神がそこにぴったりとよりそっているという感じを与えるからである。いいかえれば定位とはわれわれの選択的作用の場であると同時に、具体的ななにかをあらわす心的態度でもある。
純粋経験の世界においてはこのように主体と客体が一体となり、一見混然としているようにみえるが、意識の選択的力を通じて、具体的場所を確保することによって、経験の実在性が保証されてくるのである。それ故純粋経験はあらゆる伝統的経験論がしめす経験以上に原初的であるといえるだろう。
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